三国志の時代といえば、群雄割拠、戦乱の時代というイメージが強いですね。そうした時代にも関わらず中国詩歌の漢詩の分野は発展を遂げていきました。
しかもそこには三国志の著名な登場人物が大いに貢献していたのです。一体どういうことなのでしょうか?
三国志と漢詩:曹操・曹丕・曹植が築いた詩の世界
曹操、曹丕、曹植の貢献
戦乱の世でありながら後漢末期に「汉诗」(hàn shī)がさらに発展したのには理由があります。
実は、三国志で有名な魏の「曹操」(Cáo Cāo)、「曹丕」(Cáo Pī)、「曹植」(Cáo Zhí)親子が詩歌にたいへん秀でており、大きな功績を残したのです。
それは後世の人が、文学面でその三人を合わせて「三曹」(sān cáo)と呼ぶほどでした。
この時代の文学は、後漢最後の皇帝である献帝の元号の建安時代に因み「建安文学」(jiàn ān wénxué)、また「三曹」が提唱したことから「三曹文学」(sān cáo wénxué)とも呼ばれています。
曹操の代表作は戦争の殺伐とした時期の惨状を詠った「蒿里行」(sōng lǐ xíng)と「短歌行二首」(duǎngē xíng èr shǒu)です。
「蒿里行」は「五言古诗」(wǔyán gǔshī)形式で、後世の人々から「後漢末期の実録、詩で書かれた歴史」と称されるほど高い評価を得ています。
また「短歌行二首」は「对酒当歌,人生几何!」(duì jiǔ dāng gē,rénshēng
jǐhé!)の有名な句で始まる「四言诗」(sìyánshī)形式の作品です。
「七言诗 qīyánshī」と文学批評に貢献した曹丕
曹丕は現存する最古の完成された七言诗「燕歌行二首」(yàn gē xíng èr shǒu)の作者として有名です。
この「燕歌行二首」は戦役によって引き離された男女の苦しみと悲しみを詠っています。
曹丕が残したもう一つの功績が、文学を理論的に評価・批評し、それを著作に残したことでした。皇太子時代に曹丕が著した「典论・论文」(diǎn lùn・lùnwén)は、中国文学批評史において重要な著作と称されています。
五言古诗を発展させた曹植
建安文学で最も傑出した文人が曹植です。その代表作の一つは、庶民の苦しい生活を描写した詩である「泰山梁甫行」(Tàishān liáng fǔ xíng)です。
また最も有名な作品は、曹操の息子である自分も含めた骨肉の政権争いを、同じ根から生え出た茎で豆を煮るのに喩えて強烈に批判した「七步诗」(qī bù shī)です。
曹植は現存する90首に及ぶ詩のうち三分の二に「五言诗」(wǔyánshī)を用い、とりわけその発展に力を注いだとされています。これは後代の「唐诗」(táng shī)に大きな影響を与えました。
五言诗がもたらしたリズムと文法の変化
「汉诗」は、「四言诗」から「五言诗」、「骚体」(sāotǐ)から「七言诗」、叙事詩から抒情詩への変化を経たために、中国詩歌の歴史の中で重要な役割を果たしたとされています。
中でも「四言诗」から「五言诗」への変化は詩歌のリズムと文法を革新的に発展させました。
四言诗は多くの場合、音節が二文字ずつの組み合わせの「2・2」になるため、リズム的には単調になってしまいます。
曹操による「步出夏门行」(bù chū xiàmén xíng)の一節を例に挙げます。
shùmù cóngshēng,bǎicǎo fēngmào。
树木 丛生,百草 丰茂。
樹木が群生しており、いろいろな草がこんもりと茂っている。
これと比較すると四言から五言へのわずか一文字増えただけの変化が、より一層自由なリズム性と豊かな音楽性を詩歌に与えたのがわかります。
「五言诗」は五つの漢字で表記できるようになるので「3・2」「2・3」「2・2・1」「2・1・2」「1・2・2」の5種類のパターンが生まれるのです。
さらに五文字で成る一つの句に主語、述語、あるいは目的語が同時に配置できるようになりました。曹植による「杂诗」(zá shī)の「其四」(qí sì)の一節を例に挙げます。
Nánguó yǒu jiārén,róng huá ruò táo lǐ。
南国 有 佳人,容华 若 桃李。
Cháo yóu jiāngběi àn,xī sù xiāo xiāng zhǐ。
朝 游 江北 岸,夕 宿 潇 湘 沚。
南方の国に絶世の美女がいた。その姿は桃やスモモの花のように美しく清らかだった。彼女は朝になると川の岸辺に来て遊び、夜になると中洲の小島で休んだ。
それぞれの句で音節の区切りと、文法の配置が異なっているのがわかりますね。
まとめ
唐時代に中国詩歌はさらなる高みに達します。唐時代の詩歌については唐诗を扱った記事をご覧ください。